音楽と美学

演奏会は5月末、そして6月まで、延期・中止のお知らせが…。

個人的には、
音楽を含め全ての芸術活動は
あくまで生活の余剰で成り立っていると思うので、延期は当然だと思っています。

生活が不安定な状況では音楽を心から楽しめない。

これは3月半ばくらい、ちょっと前に書いていた日記ですが
今もまだコロナ禍の状況が好転しないので公開しようと思います。

今回のコロナ禍に関してはまだ情報が少なすぎて
どうするのが正解か誰もわからず

そして家族にお年寄りや、あるいは赤ちゃんがいたり
家庭環境によっても判断が変わるし
今日書くことはあくまで自分はこう思うという話で、演者側・観客側共にどんな選択を取ったとしても正解だと思います。

人の多いところに行くのは避ける、そして自分が人を集めない。

情報が十分に溜まり治療法がわかったら、また判断も変わると思いますが
今はそう思っています。
いずれコロナとは、季節性のインフルエンザのように付き合って行くようになるでしょうか…。

繰り返しますが、あくまで自分はそう思うということで
色んな考えがあっていいし、多様性が健全だと思います。

10年前の地震の時も思いましたが、その方が種としての生存率が上がって
そしてこれまでもそうやって人類が生き延びてきたのかな、なんて壮大なことを感じました。

巣に閉じこもってもいいし、リスクを背負って外で活動してもいいし
どの判断が結果的に正しかったかというのは
後になってみないとわからないので
色んな考え方があって、自分が正しいと思うことをやればいいと思います。

ただ、一つだけ気になったことがありました。

「生きるために食べるべきで、食べるために生きるべきではない」

昔の哲人の言葉ですが、演奏する者として
これをもう一歩進めると

「弾くために食べるべきで、食べるために弾くべきではない」
そういうことになると思います。

自分は学生の時から、そして今もそう思ってセロを弾いています。
ここを外してしまうと作るものの本質がブレて、不純なものになってしまう気がして…。
そういう部分をゆっくりと考えてみたくて、大学は音楽ではなく哲学・美学を専攻しました。

冒頭に戻りますが、いつの時代も
芸術活動はあくまで生活の余剰で成り立っています。

「No Music, No Life. 」も、あくまで生活の土台に立脚する言葉で
3/11の後にこの言葉を聞くと、ただの言葉遊びだったなとすら思う時があります。

例えば雪山で遭難した時は、イヤホンで音楽を聴くよりも
まずテントと乾いた衣服と暖かいココアが必要です。
無事に家に帰って日常に戻り、その時初めてゆっくりと音楽を聞こうと思うのではないでしょうか。

なので、今はその生活(生存権と言い換えてもいいと思います)を成立させてくださっている方々と、インフラの維持が最優先で、
芸術活動の出番はもっともっと後ではないかと…。

金銭の保証や、マスクなどの装備は
衣食住・医療交通流通小売治安など、本当に必要なところに回して欲しいし
ましてその足を引っ張るようなことはしたくないと思います。

もちろん仕事がなく、お金が苦しいことは現実です。

ただ、そのことを自分たちが声高に叫ぶのは順序が逆であり
自ら「食べるために弾く」ところに降りてしまってる。

現実に生活が苦しくても
「弾くために食べる」という美学・理想を持ち続けることが
(生活に直接貢献できない職種を選んでしまった)
我々に一つだけ許された矜持だと思います。

ここ数年度々繰り返して申し訳ないですが
家でCDを聴いてくださったり、演奏会の感想をくださったり
そのことで本当に励まされますし、音楽を続けることを許されるような気がします。
ありがとうございます。

また、いつか音楽ができる日が来るまで自分も忍ぼうと思いますし
各々大変な状況があると思いますが、皆さんも健やかでいてください。

そういえば、まだ自由に外出ができていた今年頭ころ
新しい封蝋を買いました。


月と山!

ちなみに前に使っていたのは、19歳の時に初めてパリに行って
文具屋さんで買ったお月様の寝顔でした。
もう20年近く修理しながら使っていて、大変お疲れ様でした。
今後もプライベートなお手紙には使っていくと思います。

押し溜めていたものが終わって
通販のCD、そろそろ新しい封蝋に切り替わっていますので実物を是非見てください…。